私はいま、アトラスを目の前にしています。
そう、あのティターンのアトラスです。
彼が何を支えているかはよく見えないのですが、その苦悶の表情はとてもよく見えます。きっと私のいる位置は彼の苦しみを見るに最適な地点なのだと思います。
座っているでも立っているでも、ましてや寝そべっているでもなく、私は「いる」のです。考えうる限り最も自然な姿勢で、少しの瞬きもせず、苦しむアトラスを見つめています。
これは大変な苦痛を伴う行為です。苦しむ彼を見て、酷く心を傷めるからではありません。アトラスの双肩にのしかかる重さが、なぜだか私の身体にもまとわりつくからです。もちろん、彼と同等の重さではないのでしょう。意識よりも前に、身体が勝手に抗おうとしてしまう重さです。例えるなら、39.9℃の熱で寝込んでいるときのような感覚です。異常な倦怠感と締めつけるような頭痛が絶え間なく続いています。指一本動かすことさえできずに、半開きの唇がはくはくと震えるだけです。息をできているかもよくわかりません。
アトラスに背を向けず、目を閉じることさえしないのには理由があります。
「ずっと見ていなければいけないよ。片時も目を離すことなく、ずっと。ずぅっと」
そう言われたのです。
私はその人を「あるじさま」と呼んでいます。といっても、アトラスを見ている間は声を出すこともできませんから、実際にそう呼びかけたことはありません。
あるじさまは私の左ななめうしろのあたりにいつもいます。たっぷりとした白い布をまとい、つやつや光る髪を鎖骨まで垂らし、私を見つめています。
アトラスを見る私を、ただただ見ているのです。
私から目を離すことはありませんが、あるじさまは私とちがって自由に動いているようです。
動けない私に近づいてくることもあります。隣まで音もなく歩いてきて、私の頭をなぜたり、背筋をつぅ、となぞったり。親が子を慈しむようにするときもあれば、揶揄うようになにかを踏みにじることも、原初的な欲望をその指先から注ぎこむこともあります。
私に触れるあるじさまの手もその時々で違っています。
あるときはたおやかな女の手。なめらかな曲線をえがく細い指が私の髪をときました。
あるときは骨張った男の手。耳元に顔をよせ、私の脊柱をじっくりとなぞりました。
あるときは老人の手。頭をなぜられると、かさりと落ち葉の鳴くような音がしました。
あるときは同じ年の頃の男の子の手。わずかな躊躇いと優しさでゆぅっくり近づいてきたその手は、心地よい重さで私の頭と肩をなぜていきました。
またあるときは少女の手。いつの間にか頬に伝っていた私の涙を小さな指に掬い取り、こくり、とこれまた小さな音をたてて飲み込みました。
こうしてあるじさまに触れられている間だけ、私は自分の姿を知ることができます。
たおやかな女に触れられたとき、私はあどけない少女でした。
骨張った男に触れられたとき、私は支配に抗いながら支配を欲す若い女でした。
老人に触れられたとき、私は生命に怯える子どもでした。
男の子に触れられたとき、私は胸の高鳴りを隠す15、6の学生でした。
少女に触れられたとき、私は疲れきった壮年の女でした。
ただただアトラスを見つめているとき、私は自分の姿がわかりません。
アトラスを見る以外に何もできない私は、あるじさまがいてはじめて、自分の姿を理解し、アトラスの苦痛以外を知り得るのです。
あるじさまは話しかけてくることもあります。
その声は若い男のような、もしくは落ち着いた女のような、誰ともつかない声です。あるじさまの手ほどはっきりとしたちがいは感じられませんが、あるじさまの声もまた、そのときによってちがった聞こえ方なようにも思います。
くるしい?
あるじさまは私によく聞きます。
同情、嘲笑、好奇、執着、悲哀、欲情、歓喜……。
あるじさまはその時々によって全く別のものを含んだ声音で言います。
当然声は出ませんから、答えることはできません。私の口は相変わらずはくはくと震えることしかできません。
くるしい くるしいです とてもくるしいです
熱にうかされた頭の中で必死に訴えることしかできないのです。
あるじさまは私が答えているのを知ってか知らずか「そう。くるしいんだね」と言います。
涙を流して。乾いた声で。輝く瞳で。口角を上げて。拳を握り。眉を寄せて。私の身体を抱きしめ……。
どんな声音でも、どんな反応でも、私がくるしいことには寸分も変わりありません。
同じように、どんな声音でも、反応でも、私の全身の産毛は逆立ち、鳥肌がたって、背中をぴりりと駆け上がるものがあるのです。
ひたり、ひたり
素足の音がしたと思った瞬間には、あるじさまは私の背後に佇んでいました。
あるじさまの頭が降りてきて、艶やかな髪が私の頬にかかります。あるじさまの静かな息づかいに私の目は見開かれ、乾いた瞳から涙がこぼれました。
「くるしい?」
あるじさまが言います。密やかな雪原を思わせる声です。
いつものように、くるしいです、と頭の中で答えようとしました。でも、いまこのとき、私の頭は締めつけられるような痛みも熱も感じませんでした。身体には異常な倦怠感が残っていましたが、ふわふわと宙に浮いているようでもありました。
あるじさまの両手が私の首を包みました。男にしては柔らかく、女にしては骨の太い手です。
少しずつ力がこもっていくのがわかります。私ははじめて、あるじさまに自分の訴えが届いていたことを知りました。きっと、いつものように答えない私を怪訝に思ったのでしょう。
気道が制限され、はひゅっ、と息の音がしました。今にも息が止まりそうだというのに、ずいぶん長らく聞くことのなかった自身の呼吸音に感嘆する私がいました。
「あ、るじ、さま……」
気づけば私は声を発していました。生理的な涙をぼろぼろとこぼしながら、私は驚きました。
あるじさまも驚いたのでしょうか。首にこめられた力がふわりと散っていました。
あるじさまは私の首に手をかけたまま私の左肩に顔をうずめ、「くるしい?」ともう一度問いかけました。
「……くるしい。くるしいです。とてもくるしいです」
まじないを唱えるように私は答えます。
「くるしい?」
「……くるしい、くるしいです。たしかに、とてもくるしいのです。でも、くるしくないのです。……私にはもう、わからないのです」
祈るように答えます。それは暗闇に垂れた銀糸をたぐるような感覚でした。
あるじさまの顔が肩から離れ、両手が首から上へ上へと向かっていきます。
あごをなぞり、唇へ。手のひらが頬をとらえ、指先で鼻梁が包まれてゆきます。
私の身体は恐怖と悦楽に弛緩し、目を開くのが精一杯でした。アトラスを見続けること、あるじさまの言いつけを守ることで精一杯でした。
必死に目を開く私をよそにして、あるじさまの手が、人差し指が私の目にかかります。言いつけが守れなくなってしまう、と訴えようとしましたが、私は再び声を失っていました。
あるじさまの手がついに私の両目を覆いました。
私は叫びました。声なき悲鳴をあげました。
くるしい! くるしいです! とてもくるしいです!
あるじさま、あるじさま……!
くるしい
私はくるしいです……!
「うん。とてもくるしいね」
あるじさまの手が私の瞼を閉じさせました。
目を開くと、私は座り込んでいました。
目の前にあのティターンはいません。
あるじさま……!
そう呼ぶ声だけがこだましていました。