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友達と花見に行くのでお弁当を作る。いつもはあまり気にしない彩りを考えてみたものの、妹には「茶色い」と言われた。

お弁当の中身・キャロットラペ・キャベツとえのきを中華風ピリ辛に味付けたの・豆苗ときくらげのツナ炒め・鶏むねのピカタ・マカロニサラダ・卵焼き(甘いの)・トマトと鶏皮の和物・きゅうりとハムのサンドイッチ・たまごサンド・水切りヨーグルトとビスケットでティラミスぽくしたの

近所の公園はほどほどに賑わっていた。子連れが多い。土日では今が桜のピークだが、地元の人間しかいないよう。

落ち合って早々、「(「みいつけた!」の)スイちゃんがかわいい」と話される。彼女はスイちゃんに夢中らしい。写真を見せてくれたけれど、特段かわいいともかわいくないとも思わない。子どもは動いていてこそかわいいと感じる。写真を見てかわいいと思うのはその子が動いている記憶の呼び水となるからだと思う。その辺で裸足のままレジャーシートの外に飛び出す幼子こそかわいらしい。

彼女との付き合いは高校の時からで、もう9年目になる。ついこの前知り合った様な気さえするのに。そりゃあ干支も2周するし、高校生の頃に生まれた従兄弟は小学校に入学するし、会社勤めも2年目になる。

病院を予約しなきゃいけないのに電話が嫌だし、そもそも電話するのを忘れるとか、ラジオ体操や準備体操はまともに運動だと気づいただとか、互いの弟妹の話や、高校の話をした。

花見をしながら、時折他所の子どもたちが遊ぶ様を愛で、他愛もない話をする。こういう素朴な時間は一人で過ごしているとなかなかない。花見にかこつけて、弁当を一緒に食べようと誘ったのは、本当に欲していたことだったからだろう。

 

シャボン玉を噴出するおもちゃを持っていったのだが、電池が必要で使えなかった。ので、スーパーで電池を買う。家から一番近い公園で使ってみると想像よりずっと細かなシャボン玉が大量に噴き出して、2人で驚く。ベンチに座った中一くらいの女の子2人の方向にその大量のシャボン玉が飛んでいくものだから、友達が焦って「ごめんなさい!」と言う。私も釣られて申し訳ない気持ちになりかけるが、女の子たちは少なくとも嫌がってはいなそうで、むしろシャボン玉を追いかけたり写真を撮ったりと降って湧いたイベントにテンションが上がっているように見えた。私だって同じ立場なら喜ぶに決まっている。これを嫌がるのは大概大人だろう。小さな男の子もシャボン玉の群れに三輪車で突っ込んでくる。男の子の母親が「こういうほうがいいかもなあ」と言う。

付属の液を半分ほど使って満足する。「全部使い切らないでここで満足しちゃうあたりが私たちの歳だよね」と顔を見合わせる。

とりあえず、ベランダでやらなくてよかった。これが近隣住民の洗濯物につきでもしたら大変な迷惑だ。

友達を駅まで見送り、薬局でロキソニンを二箱買う。複数購入の理由を聞かれ「会社用と自宅用で」と答える。オーバードーズの社会問題化の余波だろうが、いつから聞く様になったのだろう。1月あたりに会社の近くの系列薬局で買った時には聞かれなかった。

そのまま図書館に向かう。越して2ヶ月半、ようやく利用登録を済ませる。読みたかった本を1冊とその書架で見つけて気になった本を1冊借りる。

シルヴィア・プラスの詩集を久々に読みたかったのだけれど、所蔵がなかった。区内の他の図書館にはあるようだったので予約を入れておく。中学生の頃偶然彼女の存在を知り、最初はその苛烈さから興味を持った。近所の図書館にはやっぱり所蔵がなくて同じように他館から取り寄せて読んだ。彼女の詩は私の内側をひんやりと涼しくしたけれど、奥に熱くまたたく暗いものを残していった。本当にそう感じた。大学生の頃、図書館をふらふらしていたらその懐かしい詩集を見つけ、もう一度読んだ。その時も彼女の詩は私に新しく残していく。それは中学生の時よりも鮮明で、生々しい質感だった。最後にシルヴィア・プラスの詩を見たのは、詩集ではなく二階堂奥歯『八本脚の蝶』の中でのこと。どの詩を引用していたかは覚えていないが、私は初めてそこで自分以外の読みを知った。その後、詩の授業でもシルヴィア・プラスは紹介されたけれど、先生が名前を口頭で出すに留まった。

私の秘密を知っている本」は何冊か思い当たる。シルヴィア・プラスの詩集もその類だ。数年に一度行き当たる秘密の部屋。私は彼女の詩を一編も覚えていないし書き留めてもいない。単語のいくつかをまばらに覚えているだけだ。数年に一度その部屋に足を踏み入れ、普段思い出さない、呼び出さないようにしている秘密と対峙する。常に晒されてしまったなら、と思うとぞっとする。本当はもっと足繁く通いたい気もする。通うべきな気もする。でも、たまにでいいのだ、たまにで。(そう言い聞かせる。)

早く来ないかな。