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読むのが辛いものもある。登場人物が死ぬだとか、ひどい目に遭うだとかいうことではなく、私が自身の主体を脇に置いておかねば読めないという点で辛い。それを言い出すと読めなくなってしまうものがあまりに多いから堪えるしかない。(そしてできなくなる仕事がある。)多分に、私のような人間が読み手となる前提に作られていないのでしょう。

女性への幻想というだけならまだ良い方で、魅力的な女性を客体化し手に入れることを美徳とする、ロマンとする。時にそれが大人になることであると、時にそれが強さであると、時にそれがカリスマであると、時にそれが一人前になることであると。

つくり手は女を読者として想定せず、認識しなかったのだと思い知らされる。

これは古い作品に限ったことではない。そして、こういったものを賛美し好む人は同年代にもいる。もちろん、好むことを悪いとは言いません。ただ、彼彼女の言動に私は勝手に失望し、やるせない。思い浮かぶ彼は男であることによって主体として認められていることに無自覚で、思い浮かぶ彼女は客体化されていると気づいていないのか思っていないのかわからない。私が男であったなら、彼女のようであったなら、苦痛を伴わず手放しに読めたのかもしれないけれど、それを望んでいるわけではない。忌避すべきこととすら捉えている。それは自我を捨て去ることに近しい。

 

一方で、私には主体を透明にしたいという気持ちもあります。

ただの容れものになれたならどんなにうれしいかと。

でも、夢見心地に身を任せようとする瞬間、夢想する瞬間、「そんなのだめでしょう!ぜんぶ預けて楽になるなんて!」と警鐘を鳴らす私が現れる。そんなの、ゆるされない。戦わねばならない。「我々」のためと祈りながら。

そして、このような欲求と私が女であることとを結びつけることへの拒絶。隣り合わせにこうして語ることにさえ、自身の中に同居させることにさえ躊躇いを持たずにいられない。

それらは似て非なるものだけれど、混同してしまいたくなる。混同により、望みは叶い、ある人々から存在をゆるされるだろう。価値を認められるだろう。

けれども、決してそうしない。私は線を引き続ける。

私は透明になりたいです。器になりたいです。うすいうすい透明な。しかしそれは私が女だからではありません。客体だからではないのです。