8/3

お風呂からあがると、後輩から満月の写真(ブレている)がきていた。

月一くらい会うほかに、彼女からはちょこちょこLINEがくる。たまに私からもしなくてもよいLINEをする。後輩が満月を送ってきたのは、昨日私が「あした、満月だって」と言っていたからだと思う。

自分の部屋の真正面にあるバルコニーから月をみる。差し迫ってくるような低い空。「……8月だなあ」と独り言。夏の夜は湿度で満ちて、空と海が頭上と足元から侵食して窒息しそうになる。

ここ数日、(自身の精神が)よくないかんじがする。

一昨日と昨日で父と一緒に『シャイニング』を観た。

「何も考えなくさせてくれるような映画をみる」ことはこういう時、セルフケアの選択肢の一つになる。そういう映画の代表格が私の中では『シャイニング』なのです。しかして、あまりよくならない。

睡眠も下手になる一方だから、確かな傾向なのです。先週からポケモンスリープをやっているのですが、スコアがどんどん下がっています。朝起きても、ポケモンたちが元気じゃないのです。私の眠りが下手なせいでポケモンたちに元気がなくて申し訳ない。(ポケモンスリープは睡眠時間や眠りの深さ、リズムなどから睡眠スコアを出してくれます。この睡眠スコアが仲間になったポケモンの回復量になっています。)

やめてしまおうかとも思うのですが、ベッドに入ってからスマホをほぼみなくなったという実益があるし、かわいいしでしばらくやめたくないなあと。

仕事をしていても、ずっと息が詰まっているような感覚が抜けず、漫画を読んでもすんなりと内容が入ってこない。ちょっとした指摘に対して、もの凄く悪いことをして怒られているかのような、謝り倒したくなるような感情を生じてしまい、どうにかせねばと焦る。(決して怒られていないのに!)この状態が続くと確実に支障をきたします。

昼休み、ご飯を食べながら朝のことを思い出す。

今朝は朝食と昼食分でふた玉分焼きうどんを作った。リビングで食べていたら母がやってきて、妹の分も作ってくれたの?と言われる。「ちがうよ。お弁当用」と言うと、母は淡い期待を手放したような顔をした(気がする)。朝のぼんやりした頭では、薄い罪悪感しかなかったが、「私はやはり、家族のことすら思いやることの難しい冷たい人間」と悲しくなった。普段なら、妹も大学生なのだし昼くらい1人で勝手にすればよいし、私がこんなんなのはどうにもならないしなあ、と少々不甲斐なさを感じるくらいなのだけど。f

そうして少し落ち込んだあと、本を開く。活字は今のところ読めているのでまだまだ自分で復調できるはずなのだ。

この前部屋を片付けて取り戻した『少女を埋める』を読む。表題作の「少女を埋める」は著者 桜庭一樹の自伝的小説。田舎の父が危篤と連絡を受けて、小説家の「わたし」は鳥取へ帰る。父の死、葬式、家族のわだかまりと子としての責務。田舎の不文律の中で生きられないと感じながらも、「わたし」はそこで生きる快を自分が感じ得ると気づく。

 

男性が前に座り、女性は控える。昔から変わらず、自然と年齢や性別で役割が分かれている。

<–中略–>

世代の近い親戚が二人、「冬子ちゃん、お母さんが一人になったから、もう鳥取に帰ってこなくちゃいけないよ」と意見する。確かに、年寄りが一人残されていたら親戚の若手の人たちも心配だろう。返事はできず、曖昧な笑顔でいる。

と……。

……だんだん、不思議な、ふわふわ、とろっ、とした気分になってくる。

こうして一族が集まると、みんな同じ根から生えた無数の竹のような、大いなる同一のものの一員だというような、だから帰る場所があるのだというような、ひどく不思議な柔らかで懐かしい感覚にみっちり満たされてくる。他人が集まったときとは明らかに違う空気を感じる。……同時に、一族の中では自分が下っ端で、意見を言わずわきまえ、目上の人たる母を支え、柱の影のように静かにしていることには、とある楽さが……いや、この、わきまえるという義務だけがあり、自己決定の権利や責任のない状態には、ただの楽さを超えた快感さえあることに気づき始めた。

桜庭一樹『少女を埋める』文藝春秋 2022.1)

 

 5月末、祖母方の曾祖母の葬式があり青森に行った。祖母方の家系はパワフルな女性が多く、辟易するような不文律は感じない。しかし、「昔から変わらず、自然と年齢や性別で役割が分かれている」ことは確かで、私は小さな従兄弟の面倒をみることでやんわりと役目をこなすポーズをとっていた。青森で育ったわけでない私は結局外様であって、傍観者のように思う。「ふわふわ、とろっ、とした」親族たちを多少の冷ややかさをもってみながら、どこか羨ましいと思っている。自己決定を、それに伴う思考を手放し、委ねる快感は確かに私の中にもあるのだ。確かにそれを知っているのだ。

退社して、明日休みだし誰かつかまえて飲みにくか…?と思ったものの、くさくさした自分に付き合わせるのも嫌で、一昨日も行ったカフェに寄ることにする。そうして、『少女を埋める』の続きを少し読んでからこれを書いている。書き始めたときより幾分か気分がよくなっていて、復調の兆しを感じる。

「どんな存在であれ、個別性が聖痕(スティグマ)になるなら、それは社会のほうが間違ってるんじゃないかなって……」

<–中略–>

わたしが故郷の多くの人たちから、弱い子供、弱い女性だと思われ続けたのは、相手の誤解じゃなく、自分でそういう仮面をつけてたからじゃないか、と気づいた。強さ、人とは違う考え、将来への展望がうっかり漏れたら、昔話の猿回しや美少女みたいに土手や城壁に埋められる、と警戒していたのだ。長年、資質や感情は自衛のために隠すべき秘密だった。

<–中略–>

(わきまえてはいけなかったのだ。本当に弱くなるから)

<–中略–>

もし自分の顔に積年の弱虫の仮面がべったり張りついているなら、皮膚ごとべりべり剥がしちまおうと。因幡の白うさぎ並みに真っ赤に腫れてもいいじゃねぇか、そうだよ、もうちっとも構わねぇや、と。

 よしやってみよう、今からだぜ、と。

桜庭一樹『少女を埋める』文藝春秋 2022.1)

 

いつか、ふらっと、衝動的に、当たり前のように、飛び降りたり洗剤を飲んだりしてしまうような気がしている。そういう生きものを育てたのは私だ、と唱える。「社会のほうが間違ってるんじゃないか」と私は口にできないまま、くたくたの出来の悪い仮面を握りしめている。これを捨て去ることは、大切におもう人たちの中の幾人か、彼らの中核を否定することにならないか。何を大切にするかなんて各々が決めればいい、とはっきり表明できるけれど、仮面を捨て去ったなら、私はきっと彼らを目の前にしても黙っていられない。曖昧な受け答えなどできず、彼らを傷つけることになる。

あなたが認められぬ価値観を持つことと、私があなたを大切に思うことは同時に存在し得るのに。そう、相手に伝える、理解してもらう仕方を私は見つけられないまま、衝動のまま動き出そうとする口をくたくたの仮面で押さえつけるのだ。