2021/12/3

自分が子を産む未来を想像していない。

私は子を望まない。望むつもりも、ほとんどない。

 

 

 

自分の子に名づけようとおもっている。

ひかり あきらか 光かがやくさま

特に、眼が光りかがやくことをあらわす。

静謐で、でも音の聞こえてきそうなかがやき。とぎ澄まされた、生命を感じるかがやき。

シンプルな、自然的な、本能的な、野生的な正しさを感じる、しなやかな佇まい。

 

 

<炯>は名前に使えない漢字らしいので、私はそうぞうすることにした。

私にしか見えない、聞こえない、感じられない。私の子。

あなたは炯。

 

 

炯、あなたが私のお腹にいたことはない。私はあなたを孕まなかった。冬の明け方、30分ほどの長い時間をかけて、あなたは膝の上にあらわれた。なまあたたかい、赤んぼう特有の湿度がたちのぼり、薄桃色のかたまりに私は気づいた。産みの苦しみのないかわりに、得体のしれない気味悪さがあった。抱えあげると、体積にたいしてなんとなく重い。軽々と抱くことはかなわない重さ。そのくせ、弱い。怠惰で血のたりない私より弱い。私と真逆のくせに、脆い。私が守ってやらねば。座らない首、庇護すら知らぬ手、ちいさく柔いからだ。非力な私にさえ、この子をこわすのはたやすい。

炯、私はあなたを守る。私はあなたを愛する。私はあなたを畏れる。私はあなたを記憶し、決して忘れない。

まだ夜の明ける前、ひとりきりの私のもとにあなたが訪れたことを忘れない。

朝闇にちりちりとひかるあなたの名にふさわしい瞳を、冷えた空をきるちいさな手を、あなたからたちのぼる生命の蒸気を、私の記憶にとどめおくと誓う。

 

炯、眠りからさめると、あなたはしゃべるようになっていた。明瞭な言葉をつかうようになっていた。4歳くらいだろうか。白い布を身につけ、ベッドの端に座っている。放り出した足をぷらぷらと所在なさげに揺らしている。ぱやぱやと綿毛のようだった髪も肩あたりまで伸びて、昼の長いひかりを透かしている。真っ黒でない髪色は私と同じかもしれない。ぷつりと自分の髪を一本抜いてみる。鳶色に染まった髪の根元に目を凝らす。染まっていない、地毛の部分はあまりにも短く、ひかりに透かしてもよくわからなかった。でも、わからなくなってしまった地毛の色は炯の髪と同じ色をしている、とおもう。

「ねえ、おかあさん」

炯が私を呼ぶ。私以外を知らぬあなたが、私以外に呼びかけるなんてないでしょうに、私はあなたのいう「おかあさん」が自分のことだとおもわなかった。

「おかあさん、と呼ばないで」

「でも、産んだのはおかあさんでしょう?」

「いいえ。私はあなたを産んでいない。あなたをそうぞうしたの」

「それは、つくるということ?」

「とてもそれに近しい。そのようなこととおもってくれてかまわない」

「じゃあ、おとうさん?」

「いいえ、それもちがう。どうしてそうおもうの?」

「だって、父なる神が世界をつくったといっていたんだもの」

窓の外で風がとどろいている。

びゅおお びゅおお

炯、あなたは音に反応して窓に目をやった。すりガラスをとおったうすい陽光があなたの瞳の中をちらちらと舞い、虹彩になった。私は衝動的に、しかし適切な力の加減をもって、炯の肩をつかみこちらに向き直させた。炯のかたちが変わり、肌には指の沈んだ輪郭がうかぶ。はっとして力をぬく。震える瞼のおく、まんまるの目が私を見つめる。さえざえとした湖に不安げな私がうつっている。ぬるい昼に心地よいつめたさ。冬の凍てつく湖ではない。あなたが持つのは初夏の森の奥深く、うすもやのかかる湖。そのうすもやは妖精の翅よりもうすく、訪れるものに道をゆずる。私はあなたに理性があることを知る。この閉じられた部屋で、感じえない風を感じ、聞こえぬ声を聞いているのだと知る。

炯、あなたが私をみつめたあのわずかな時間、私は思考した。あなたが口にする私の名を必死に考えた。覚醒しないまま、沈むように潜った。

「きょう、と呼んで」

それは父が私に与えなかった私の名。母が呼ぶかもしれなかった私の名。存在しない私。生まれてこなかった私。あなたと一緒。お揃いなのよ、炯。

「きょう、と呼んであげる」

ちいさな頭が素直に揺れる。その傲慢な声は愛されているという自信。私は嬉しくてしようがないからあなたを抱きしめた。熱くすら感じる子どもの体温はひかりの匂いがする。ふたり、くっついたまま羽布団に倒れこむ。きらきらと綿ほこりが舞い上がる。

炯、あなたは花園に隠れた精霊のように笑った。私も同じように笑った。うつくしく剪定された生垣と正しく整備された花壇。それらを覆う雪。炯の手をひいて新雪を踏み荒らす。彫像の回廊をぬけ、すみれ畑のまんなかを駆ける。彫像に睨まれようと、すみれの根に足をとられようと、すこしも気に留めない。互いの名を呼び合う声がいたずらにひびいては吸い込まれていく。花園の最奥、つる薔薇に囲まれた円形舞台に腰かけ、炯を膝にのせる。沈黙していた植物たちが息を吹き返し、入り口のアーチを侵食した。あなたは私の手を包んだ。うす赤いちいさな手で、私の左手をとった。あなたの手は幼く、私の手は青白かった。

「どうしたの」

「きょうの手は冷たいから、あたためてあげるの」

雪も緑も激しくなる。つる薔薇は一斉に花をつけ、瞬く間に散り、もう一度花ひらく。100年の雪がいっときのうちに降り、散った花びらを埋める。あかい、しろい。あかるい、くらい。ちかちかと目まぐるしい景色の中で、私の手を握り続けた。蔦に足を囚われ、涙で眼球の凍りついた私のもとからあなたは離れなかった。

「……あなたはいいこ」

「ほんとう?」

「ええ。ほんとうに。とても、優しい」

炯、私の炯。あなたをとどめおきたいとおもう。私をおもうあなたを、そのかたちのまま氷漬けにしたい。私は氷の棺の上で眠り、老い、死にゆく。だんだんと下がる体温が棺を溶かし、あなたの元に辿り着く。愛しい我が子に頬擦りし、抱きしめる。地の底で、共にある。……炯、私はあなたを尊ぶ。尊ぶ、と決める。水底から芽生えつつあるあなたの思考を決して奪わない。あなたを断じない。炯、それをもって愚かな私をゆるせ。

 

炯、日の落ちるころ、あなたは本を読んでいた。文字を理解し、言葉を読み解くようになっていた。もう、13、4に見える。金格子のはまった西の出窓に腰かけて、あなたは夕闇に染まっている。レースのカーテンで半身を隠し、しなやかに伸びた手足は抱え込んで、肩甲骨に達した髪は耳にかけている。それは、身じろぎでゆらめいて、極彩色の天幕のよう。ほっそりとした指がページをめくるたび、あなたの持つ世界はわずかに色をかえた。クリーム色に橙が混ざり、むらさきが混ざり、朱が混ざり、色濃く影深くなっていく。瞼が世界を開き、閉じる。七色の睫毛が震えるたび、波紋が生じる。世界を読む瞳は、こちらとあちらのひかりをうける。ひかりはあなたになる。あなたはいま、あいだにいる。あなたに呼びかけたい、とおもう。

冬の日が沈むのははやい。だから私は待った。辛抱強く、待った。外が暗く見えなくなると、あなたは本を閉じた。色の抜けたからだを金格子にもたせかけ、ゆったりとまばたきする。黒い海を見下ろすようにガラスの向こうへ目をやる。静かに、長く、息を吸って、吐く。気づかれないよう、私は息をひそめて、体を折りたたむ。微動だにせず、あなたの無害であろうとする。炯、あなたの一呼吸一呼吸が永遠だった。走馬灯が存在するなら、きっとこのような時の流れ方だろうと思った。あなたの吸う、粒子のひとつひとつさえ感ぜられる。私の器官はいくつにもわかれ、あなたを鮮明に焼きつける。あなたを持てるだけ持とうと試みる。ひとつだって持てないと知りながら、すべてを持とうとする。一瞥もしないから、無遠慮にみつづけられる。それでも、あなたが私に呼びかけるのを待っている。どんなに苦しくとも待っていられる。

ゆるやかに意識をくだって、くだって、眠りに落ちていく。この部屋はまるでゆりかご。あなたと私を乗せた小舟。羅針盤も地図も持たず、青黒く果てのない海を漂っている。深海に住む未知の生き物のように、あなたは、ぼぉっと発光して、ひかりをうけた塵が暗闇へ消えていく。真っ黒でなかった髪は海と同じ色になって、部屋の隅にいる私の足元まで及んだ。髪は波に合わせて蠢いた。私は文字通り、髪の毛一本も触れないよう注意をはらい、金格子に寄り添ってうっとりと海を眺めるあなたを見上げていた。あなたのひかりを水面(みなも)が反射している。反射したひかりの一部はあなたに戻っていく。何度も何度も、反芻するように輝いている。苦しく、穏やかで、息の詰まりそうな幸福をかんじる。

 

どぷんっ……!

私がついに意識を手放そうというとき、舟が大きく揺れた。炯、あなたの髪は絨毯のように部屋に敷かれ、波立ったそれが私の指先に触れた。あなたは野生生物のように振り向いた。まどろみの中、あなたと目が合い、ひときわ強く輝く瞳が私を責めたてた。見覚えのある輝きかただった。しかし、どの生物ともちがった。獲物を狙う肉食獣でも、危機を察知した草食獣でもない。野に生きるものでも、海に生きるものでもない。もっと、原初のころよりあり、はるか先で生まれ、いつも、私のもとにある、気が、する。鉱物にも似たひかり。私はそのひかりを、いつ、見たのだろう。

「きょう……」

子どもの声ではなくなっていた。男か、女か、判断のつく声になっていた。

「ええ」

私の声は凪いでいた。凪いでいるのは声だけで、私のうちでは風が吹き荒び、万雷が轟いていた。孤島に取り残されて、ただ、その景色をみているようだった。

「怒って、いるの?」

「怒っていない。……あなたのほうが、ずっと、怒りの近くにある」

風雨が窓をたたき、金格子が激しい音をたてる。どこからか飛んできた枯れ葉が、格子で区切られたガラスに張りつく。枯れて歪んだ葉の輪郭が、断末魔を上げるように、弱々しい力でもがいている。

「怒りなんてない。怒りのそばに私は、ない。私は……私は……」

私は叩頭し、祈った。炯がこれから一言も発しないことを祈った。自身の聴力の失われることを祈った。炯の生きる世界と時間から、自身の切り離されることを祈った。

木の砕ける音が数度きこえた。

青白い空が見える。温もりはさざ波のように、体を超え、引いていく。

「きょう……」

炯の声がきこえる。誰も、私から何も奪わなかった。奪っては、くれない。

「きょう、わたしはあなたとともにある。絶対に。殴られても、抱かれても、壊されても。奪われても、閉じられても、断じられても。きょう、わたしはあなたの子。あなたの神。わたしはあなたを愛し、守る」

指が、頬に触れる。なにも感じない。触れていることだけ、わかる。

炯。私の炯。

あなたは私を守る。あなたは私を愛する。あなたは私を厭い、恨む。あなたは私を記憶し、いつか忘れる。

 

そう、定める。