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17世紀頃まで、教会堂が建築の中心で、建築の構築法もその表現もまっさきに教会堂の建設において工夫され、捧げられることで発展していった。

 

信仰のためにつくっていた時代、生活の中心はきっと信仰だった。(それが形骸化したものであれ。)だから、人々の技術は信仰に結集され、美しい教会建築が、芸術が、もしくはそれに反する表現が生まれた。

近代になるにつれて、教会堂が新設される機会は減り、現代建築の歴史では教会堂は数えるほどになっていく。図書館や美術館、学校、もしくは市庁舎や工場、働くための場所、別荘や私邸が中心になる。生活の中心は明らかに、信仰以外になっている。家と働く場所、学ぶ場所が主だった建築に、技術や表現の粋を集める場所になった。

信仰は人間と密接に結びついているはずだとおもう。現代にあっても、キリスト教を土壌にしない国に生きていても、信ずるものを求めている。信ずる対象があまりにも多様化しているだけで。

しかし、建築は信仰と距離をおいた。おいている。

それは人々が信仰と距離を持つことが可能になったからだろう。生活を豊かにするものが現れ、死後ではなく、今このとき豊かに満たされることを知った。新しく満たしてくれるものが次々と現れる社会。新しいものが手に入る社会。夜には明かりが灯り、朝昼夜のサイクルからさえ逃れることができる。祈らずとも生きてゆくことができる。

その一方であり続ける清貧。清貧が救ったのは、物質的な豊かさを手に入れることのできなかった人やそれでは満たされない人。彼らは祈り続け、信仰を必要とする。

こういう綴り方は好きでないけれど、相対的に、前者が多数で金があり力があるのだと思う。だから建築はそちら側へ進んでいった。(きっと建築以外でも当てはまるものはある。また、これは基本的に都市においての話だ。)

 

どうにも現代建築が好きになりきれない、というかしっくりこないところがあるのだけど、それは信仰と離れた部分があるかららしい。(決して嫌いということではなく。人はこんなに大きいものをこんな形で想像し、作ることができるのか、と感動するもの。)

現代建築は基本、人のためにある。人が使いやすいよう、なおかつ環境と調和する、自然を大切にする、機能的に優れているなんてことを重んじる。それは一利用者を想定し、その一利用者は“私“に置き換えることができる。

信仰するため、祈るための場の建築を好ましいと思うのは、それが人のためではない(それが建前であれ)部分をはらむから。祈ることは自分のためであり、生きる他者、生きとし生けるもののためかもしれない。

しかし、祈る対象はそれ以外だ。もっと巨大でかたちとしてわからないなにかにたいして祈る。私には信じる神がないけれど、神の概念はもち、神はあるとおもっている。私がなにを信じているか、なににたいして祈るかと言えば、自分以外なのだろう。教会堂のような建築は絶対に私のためにつくられたものではない。だから好ましく思うのだ。