2021/5/13

ぼくはある人に飼われている。

彼女はぼくらの種族でいう結婚適齢期にふくまれ、ひとり(とぼく)で暮らしている。

外で働いてきて、帰ってくると食事とお風呂をすませて眠る。お酒をのむときもある。あまり高そうでないワインを飲んでいる。

彼女が出かけているあいだ、ぼくはDVDで映画をみたり、部屋にある本を読んだりしている。

映画の内容はよくわからないものが多い。大学生のころ好きだったといつかいっていた。洋画しかなくて、ぼくは俳優の名前も監督の名前もひとつだって覚えられない。

本は古びたものが多い。子どものころに集めたのだといつかいっていた。はんぶんはジドウブンガクで、はんぶんはチョサクケン切れの作家。そしてうすい文庫のギキョクとメイゲンシュウが数冊ずつ。

ある日、昼間に読んだギキョクの一節をそらんじてみせたら、彼女はおおきな瞳から涙をこぼした。宝石を砕いたようだった。

そうだね そう……だから、あなたを

そういって、ぼくを抱きしめようと手をさしだした。ぼくは抱きしめられるつもりで待っていたけれど、彼女の腕はくたりと力をうしなった。そこがあるべき場所とでもいうように、しばらく動かなくなった。部屋にはソファも椅子も絨毯もあるのに、なにもないフローリングの上にへたりこんでいた。ぼくはただ隣にいた。ここがあるべき場所、とめいっぱい主張するように、いた。ふたりで朝日をみた。民家やビルの頭をけずるひかりに目を細め、たがいの体温のあることをかんじていた。

きんようびでよかった

というので、

ぼくはあなたがいないと死んでしまうよ

といってあげた。若く健康で毛なみのうつくしいぼくは、彼女がいなくても死んだりしないけれど、そういってあげた。

ありがとう ごはんに、しましょう

ふたりで食卓を囲む。キャラメル色のテーブルに向かいあって座る。

ぼくの前にあるのはプレート。〈トースト(はちみつがかかっている)・プチトマト3つ・レタス2枚・ミネストローネ(きのうの残り)・目玉焼き〉

彼女の前にあるのは小鍋とお椀。〈韓国の袋麺(溶き卵を入れてある とても辛いらしい)〉

ぼくと彼女は別々のものを食べる。だから別々のからだになる。ぜんぜんちがうかたちになる。食べるスピードもちがう。彼女は食べるのがとてもおそい。それはそうだ。辛いものが苦手なくせに辛いものを食べているのだし。週のはんぶんは辛いものを食べているのに、いつまでたってもはやくならない。はあ、はあと息を荒くして、ときには涙と鼻水で顔をよごして、頭を垂れながら。額には汗がにじみ、突き出された舌のさきから細い唾液が滴れる。必死に熱を、腹の奥の濁りを吐き出そうとするようにのみこむ。ときおり、ぼくを眼差す。まっかなスープを啜り、ほてるからだをなぐさめる。そんなことをするくらいなら、ぼくをどうしてくれたってかまわないのに。

 

ねえ、どうして 苦手なものを食べるの?

うちにのこっているから

ぼくがそれを食べたってかまわないんだよ?

これは わたしにひつようなの わたしにひつような、ぼうりょくなの

それは あの人をおもっているから?

いいえ わたしがたえられなかったから そのしょくざいかもしれない

 

彼女は微笑んでいった。

 

あなたは耐えていると思うよ。だって、ぼくに指一本だって触れないだろう。その眼をぼくに向けることを躊躇っているだろう。ぼくに別のものを食べさせるでしょう。

あなたが部屋にいない間に、遺されたもの全てを食べてしまおうか。

あなたは脆くないといってあげるから。

あなたは脆いかもしれないといってあげるから、

あなたが脆くともぼくは決して責めないのだから。

彼が母を責めたようには愛さないから。

 

 

 

 

*このとき読んでいたもの:シェイクスピアハムレット』(福田恆存訳)新潮社(1967)