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おかしな夢をみた。

私はあるクリニックの取材に訪れていた。車で来たわけではなかったが、車移動を前提にしたようなだだっ広い駐車場がそこにはあり、私はその真ん中あたりからクリニックの写真を撮った。車はぽつぽつと駐まっている。黒い車が1台もないのが妙に思えた。おかしな点はもう一つあった。先にある2階建てのクリニックはさして大きくもないのだ。母の実家の病院(今は他に貸しているから病院ではないが)、祖父がやっていた病院2つ分くらいに見えた。こんなパーキングエリアのような駐車場なんていらないだろうに。奥に広い建物なのだろうか。

オフホワイトの建物から出てきたペールピンクのゴルフカートが、おもちゃみたいな音を立てて近づいてくる。目の前で停止したときだけ、うぃぃん、と嘘みたいにまともな電気の音がした。

「お待たせしました」

カートに乗っている2人のうち女性のほう、指原莉乃さんが降りてくる。私は取材対象を認識して、挨拶を交わし、一緒にカートに乗り込む。

カートに乗っているもう1人は年齢不詳の男性で、端正でいてあまり印象に残らない、でも不思議なエロティックを感じさせる面持ちをしていた。その感覚は正しかったようで、彼についてはこんな印象しか覚えておらず、服装も顔立ちも身長すらおぼろげにしか思い出せない。くすぐったそうな毛先の細さだとか、頬に落ちた毛先の影だとか、そんなことばかり焼き付いている。たしかに彼は一日うしろに連れ立っていたのに。

ペールピンクのカートは私たち3人をのせて、カタカタとおもちゃみたいな音で進んでいく。私はその間、指原さんと他愛もない雑談をしていたけれどその中身はほとんど覚えていない。

(彼女と渡り合って取材なんてできねえよ。私、ペーペーだしなあ)と話しながら感じたことと、

「すみません、今日上司の〇〇が急用で私だけになってしまって」

と自分で言ってから、(あ、そういえば本当は私がメインの取材じゃないんだった)と思い出したこと。覚えているのはそれだけだ。

異様に音のしない大きな駐車場で私たちの話し声は異物だった。物言わぬ彼がいちばん普通に思えた。カートの振動だけが生々しく私たちを揺らしていた。

*ブラックアウト

クリニックの中は想像より薄暗く心地よかった。こつこつと響く指原さんのヒールの音、したしたと吸い込まれる私のフラットシューズの音、それから、とぉん…とぉん…と迫る革靴の音……。病院の廊下を歩く音だ…それもある程度に大きな病院の…。ベージュのリノリウムの床と外観と違わぬオフホワイトの壁が、終わりが見えぬほど長く続いている。指原莉乃プロデュースのクリニックだというから、もっと明るくやわらかで都会的なところだろうと思っていた。それこそ「さっしー」のパブリックイメージに違いないものだろうと。

「録音をまわしても良いですか?」

訊ねると指原さんがニッコリ頷く。設備を案内されながら私は質問を振り、指原さんが答える。その中身も、やっぱり少しだって覚えていない。レコーダーが代わりに記憶している。クリニック内は撮影禁止らしく、カメラが使えないのが惜しかった。会社から持っていけと預けられた、私には到底使いこなせないカメラもうしろに付き添う彼に取り上げられた。おかげで身体は随分軽いけれど。

バラエティで観るままに話す彼女が、このほの明るい、消毒とリネンの匂いの中に立っている姿はもうみられないだろうに、それはそれは必要以上に美しかった。この姿をきちんと写真に切り取って誌面にあげれば、もう誰も彼女を彼女より年が上の男性司会者と組ませたりなんかしないのに。ああ、あんなもの作るプロデューサー、ひとりひとり突き落としてやりたい。あの高くて、無駄にガラス張りの建物の窓ガラスをハイヒールで割って、笛を吹いて整列させてあげるよ。ねえ、覗いてみなよ、って。まあ、どちらにせよ私の写真の腕じゃあ難しいかな……。

*ブラックアウト

一通り案内されて、10畳ほどの会議室に通される。しばらくすると、医師と思しき男性が入ってくる。また、挨拶を交わして、質問を振り、医師が答える。指原さんが答える。にこりと微笑む。数度、軽口を挟む。この中身もどうしても覚えていない。レコーダーが記憶している。ずっと歩いてきた廊下よりも、LEDの光が白く眩しく、廊下と変わらぬリノリウムの床が別物のようにてらてらと艶めいていた。

あらかた取材が終わって、お暇しようかという頃、指原さんが言う。

「ああ、鍛治乃さんも卵子凍結していきませんか?ご興味あるって話されてたじゃないですか」

「え?」

「50,000円です。その後、1年毎に10,000円。こんな条件他にないと思います。私、もっと妊娠と出産を自由にできたらいいと思っているんです。多くの女性がもっと簡単に選べたらいいと思っているんです。本気で」

まったくその通りだ。そして、確かに相場よりずっと安い。彼女は極めて真剣で完璧な表情と抑揚で話したから、真にそう願っているのだろうと思えた。卵子凍結と卵管結紮は私も手段として考えていたし、いい話なのかもしれない。例え、ペテンであったとしてもいい。ついでにこのまま録音をまわして、ルポルタージュにでもしてしまえばいいのだ。大っ嫌いな奴らを悪役に仕立てて、三文芝居を打ってやったらいい。それじゃあルポルタージュ"風"か。

「お願いしてもいいですか」

できる限り凪いだ声が良いだろうと身体に任せる。こういう話し方は身体の方が得意だ。身をもって学んでいるし、身体は怒らないから。しかし、私はこの判断をすぐに後悔した。

「では、すぐにでも」

これは医師が言った。医師と目が合った刹那、性的な惹かれに貫かれる。奥底を叩き壊されるような充足と甘美。

ああ、さいあくだ。どうしようもない。

*ブラックアウト

医師に促されるままに席をたち、部屋を出る。黒子のように、変わらず彼は私の後ろを歩いている。指原さんが部屋を出たのかはわからなかった。私はもうその時、自分の身体の調伏に手一杯だった。殺す気でかからないと勝手をするのだからしょうがない。左胸を触り、レコーダーが入っているのをどうにか確認して、殴り合いに集中する。医師が何か喋っているのをレコーダーが引き続き、私に代わって記憶する。

*ブラックアウト

卵子の採取は驚くほどあっさりとしていた。

婦人科でお馴染みの椅子に座らされ、機械的に脚を開かれる。違うのは、医師も私も静かに、熾火をふたりの間で絶やさぬよう視線を交わしていることだろう。医師が何か説明している。私はというと「はい」「ええ」としか言わなかった。レコーダーに声を拾われぬよう、懸命に喉を絞り上げた。録音を切らないことが私の矜持であり、命綱だった。長く回しているせいかレコーダーが熱くなっている。それが正しい認知なのかはもはやわからなかったが、そう信じることで殺し合いの舞台に私は立ち続けていた。変わらず彼は私のうしろにいた。姿は見えないが、部屋には2人の男の気配があった、と身体が記憶していた。

*ブラックアウト

隣の部屋はセミダブルベッドくらいの広さの暗闇だった。ほそく開いたドアから、施術室の明かりを盗む。医師と私は向き合って立ち、手元にあるコンドームにつまった卵子を覗き込む。卵子はBB弾くらいの大きさからパール大くらいまであった。無色透明でつやつやと丸く、消臭ビーズみたいだった。

「たくさん採れました。とても良い状態です」

卵子の良し悪しはさっぱりで、はあ、とか曖昧に頷く。現実とフィクションはこうも違うのか…?なんて『胚培養士 ミズイロ』を思い出しながら考えていた。医師がしっとりとした声で何か説明している。これもレコーダーが記憶する。

いつの間にやら手に取っていた卵子のひとつをドアの明かりの方へ透かしてみる。指と指の間には何もないように見えた。ああ、だからこんな暗く狭い部屋なのかと気づく。ぷつり、と音を立てて、私は自らの意志のもと卵子を潰した。

さいあくだ。

*ブラックアウト

医師と私がキスする。左胸に刺すようないたみ。

*ブラックアウト

上質なシートに座っている。

私は助手席に、例のずっと控えていた彼が運転をしている。外は暗い。トンネルの中だと気づくのに数秒かかった。車線がひとつしかない。身体が、起こったことをまばらに記憶している。左胸に入っていたレコーダーからまぼろしのように頼りない駆動音が聞こえる。

*ブラックアウト

アラーム

目覚め

忘却