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薄皮一枚でやらずにいた二度寝をする。

乗り換え駅で降りると、外は豪雨。改札前のレンタル傘サービスをおばあちゃんが使おうとしている、のを助けている若い男性がいる。彼は私より年下に見える。このサービスはキャッシュに対応していないから手間取っているのだろう、と横目に通り過ぎる。すでに手は差し伸べられているのだからよいよね…。地下鉄へ向かう階段を降りていく間に「彼の懸念はサービスの利用を代行すること自体ではなく、おばあちゃんが傘を返さずずっと支払いが発生することではないか」と思いつく。それなら私の傘をおばあちゃんにあげればいい。大した値のものではないし、会社には置き傘があるし、駅から会社までさして濡れずにたどり着く方法のあたりもつく。降りた階段を昇りながら、けどなあ、この傘まあまあ気に入っているんだよなあ…だからこそ珍しくなくしていないし…と悩む。振り切るように声をかけるとちょうど借りる操作を終えたところで、私はただ単純に一本電車を逃しただけの人になった。おばあちゃんは(おそらく若い男性も)私が一度通りかかって戻ってきたのをわかっていたらしく「ありがとぉねぇ」と言ってくれた。そのとんでもなく柔らかく甘やかな言い様に感動しつつ、自分の仏頂面が綻んでいることを自覚する。世界にはこういうふうな伝え様をできる人とできない人がいて、私は確実に後者だ。後者がよくないかといわれれば決してそうではないが…。わずかにも羨まないのか、と問われれば「わずかにも」とはとても言えない。

帰り、またカフェに寄る。宿題をやるつもりが『少女を埋める』のなかで手付かずだった「キメラ」を読んでいた。「少女を埋める」を読んでからしばらく寝かしていたのには理由があり、「キメラ」はリアルタイムで私が見聞きした現実の世界の出来事を綴った私小説であるからだった。

著者が直面した、「少女を埋める」への批評とそれに伴って起こった、起こり得た問題、それに対する危惧。Twitterでも議論は起こっていたから、私もことの経緯や議論の概要を知っていた。その内容からするに、その時の心情や状況を読むことは決して小さな労力ではないだろうと。ある種警戒していた。頭のリソースがないと登場人物の苦痛に引っ張られる…。

幸い(?)、警戒もあってかよい距離で読むことができて、今ほっとしている。

 

いまは時代の価値観が変わっていく過渡期で、わたしたちは不安定な足場の道を、支えあいながらなんとか足早に進みつつ、生きている。社会と同じように、文学の世界でも、ぶつかりあい、二歩進み、一歩下がり、また三歩進み……と少しずつだが、確かに前進していると感じる。古い価値観で「出て行け。もしくは、従え」と言っていたわたしたちを埋めようとしてくる人たちの主張は、わたしはやはり、案外ワンパターンだと思う。今回、自分は埋められかけたが、手を差し伸べ、助けてくださった方々もたくさんおられた。その方々にとっても、わたしを助けようとしてくださったお気持ちのほか、ご自身のための戦いがあり、社会を前進させ、文学を守るための戦いがあったのではないかと思う。

 恐れることはない。進め、進め、と。

 

「我々は出ていかないし、従わない」

「我々は出ていかないし、従わない」

「我々は出ていかないし、従わない」

桜庭一樹『少女を埋める』「キメラ」文藝春秋 2022.1)

 

7月の初め頃に会った友達を思い出す。

私が就職にまつわるあれこれや社会に出ることを考え始めてから、働き始めた現在までずっと、きっとこれからも見返すであろう誓いのような書き付けを見せた。

「頼ちゃんみたいな人が社会にいて……“会社”で働いてるって、うれしい」

読み手が違えばその書き付けは、誓いは、降伏文だろう。敗北者のうめきだろう。みっともない言い逃れだろう。

でも、彼女は、うれしい、と……。

生きのびようようと思った。働き、人と関わり、営もうと思った。私“たち”のために。「我々」のために。それなら、がんばれる。